その日、妖夢が紅魔館の大図書館を訪れたのは――。
「……というわけなのです。どうか、教えては頂けま」
「帰れ」
パチュリーのにべもない返答に、妖夢は「ぐっ」と呻き声を漏らす。
好意的な態度を期待していたわけでもなかったが、さすがにここまで素っ気ないとは思わなかった。
「で、ですが」
「小悪魔、お客さんのお帰りよ」
「ちょ」
パチュリーの呼び声によって現れた小悪魔は、こちらと主とを交互に見るようにして、戸惑ったような表情を浮かべている。
妖夢は、その隙を逃さず、再び頭を下げた。
「どうか! お願い申し上げる……!」
きっちりと腰を直角に折り曲げての、完璧な礼であった。
頭を下げ続ける妖夢の耳に、小悪魔の困ったような声が飛び込んでくる。
「あ、あの、パチュリー様……事情はわからないのですが、ここまでやっていらっしゃるとは、余程の事情がおありなのでは」
「だから?」
「えっ、いえ、だからですね、ちょっとはその、耳を傾けて差し上げてもバチは当たらないんじゃないかとか、そういう感じ? っていうか」
「嫌よ、めんどくさい」
妖夢は、頭を下げ続ける。
ここは耐え忍ぶべきだ、と、修行で鍛えた己の勘が告げていた。
「いいから、とっとと追い返しなさいよ」
「ですが……」
その時だった。
パチュリーと小悪魔以外の、第三者の声が降ってきたのは。
「おっ? どうしたんだ」
顔を上げて見ずともわかる。
この声は、霧雨魔理沙だ。
「んー、そこにいるのは妖夢じゃないか。珍しいな」
「あんたは何しに来たのよ。とっとと帰りなさい」
「あぁ? なんだよ、つれないな」
「……小悪魔ァ! 二名様のお帰りよ! お見送りしなさい!」
妖夢は、ひたすら頭を下げ続ける。
魔理沙のほうに視線をやることもしない。
ここで礼を解いてしまったら、あとはなすすべもなく追い返されるだけだとわかっているからである。
「……ふむ」
魔理沙が、横へやってくる気配がする。
そして発された声は、ぐっと低くなっていた。
「なんだか知らないが、よほど私と、あとこいつを追い返したいらしいな」
「だから何よ」
「こうなったら、意地でも帰らないぜ!」
「なっ……!」
パチュリーの驚愕したような声が降ってくる。
妖夢は、思わず視線だけを横へ向け、そして驚いた。
「はははははっ! 私もここで頭を下げ続けてやるぜ! たまには正攻法もいいものだろうからな!」
そう言いつつ、魔理沙も妖夢と同じ角度で頭を下げ、ちらりと視線を向けてきた。
にやり、という不敵な笑顔に釣られ、思わず妖夢も苦笑を零してしまう。
「ぱ、パチュリー様……」
「う、うるさいわ。さぁ、小悪魔、とっととこのふたりを――」
「あら? これはどういう光景なのかしら」
「あ、アリスさん……」
小悪魔が言うまでもなく、そこで割り込んできた声の持ち主は、まぎれもなくアリス・マーガトロイドであった。
「……今日は、やけに客が多いわね」
「魔理沙、に妖夢……? どういうこと、これ」
「なんでもないわ」
「よう、アリスか! 」
頭を下げたままで、魔理沙は言う。
「こんな恰好ですまないが、これは女の勝負って奴だぜ! な、妖夢?」
「……」
どう応えたものか、そもそも応えるべきかどうかもわからず、妖夢は困惑する。
何しろ、自分は頼みごとがあって来ただけなのだ。そこに魔理沙が勝手に並んで頭を下げてきた。それだけのことなのである。
「……そう」
アリスは、疑問と困惑に満ちたような声を上げる。
無論、妖夢からはその表情は見えない。
「どうでもいいわ。とにかくとっとと帰って。邪魔だから。小悪魔、その二名を――」
「ねぇ、パチュリー」
そこで、アリスが再び割って入る。
「何よ」
「あの、なんだか知らないけど、何かこいつら、頼みでもあるんじゃないの? ほ、ほら。魔理沙はともかくとして、妖夢は理由なくこんなことしないはずだし……」
「うるさいわね……!」
パチュリーの苛立った声が聞こえてきた。
どうやら、相当不機嫌になってきている様子だ。
「くだらないこと言うなら、お帰り頂く人数が三名になるだけだわ。小悪魔、三名様のお帰り――」
だが、その後の言葉が良くなかった。
隣から、魔理沙の「あちゃぁ……」という呟きが聞こえてくる。妙に嬉しそうだ。
「……そう。私はこいつなんかとは違って、淑女的に振舞うつもりだったのだけどね。貴方がそう言うのなら――」
「……ッ!?」
「――私は、やっぱり淑女的にお願いすることにするわ」
声の位置が、真横に。
またしても妖夢はそちらを見てしまう。
……魔理沙の頭越しに、アリスと目が合った。
これで、妖夢、魔理沙、アリスが並んで頭を下げていることになる。
「ちょ、ちょっとパチュリー様、どうするんですかこれ……」
「う、うるさいっ! いいからそいつらを追い出すの!」
「む、無理ですって! 私には……!」
「じゃあ私がやるわ! そこをどきなさ――」
その時であった。
「パチュリー様。……あら」
涼やかで怜悧なその声は、紅魔館のメイド長、十六夜咲夜のもの。
「紅茶をお持ちしたのですけれども……」
そこで、僅かに躊躇うような間があって。
「……お客様の分もお持ちしたほうがよろしいでしょうか」
隣で魔理沙のクスクスと笑う声が聞こえる。
いや、アリスも笑っているようだ。
咲夜が、思ったよりずれているのは知っていたが、こうして聞くと、妖夢も無性におかしくなってくる。
しかし、そこで自重をする。いやいや、ここで笑ってはいけない。自分はあくまで頭を下げている身。お願い事をしている立場なのだ、ということを意識する。
「お客様ァ……? ちょっと、どこをどう見たらこいつらが『お客様』に見えるっているのよ!」
「なあ、パチュリー。お前さっきこう言ったぜ。『今日は、やけに客が多いわね』ってな!」
ドヤ顔だ、と妖夢は思った。絶対こいつ、今ドヤ顔をしている。
「くっ、生意気な……! こっ、こぁく――」
「とりあえず、紅茶をお持ち致しましたわ」
「いつの間に! って言うか、あんたもひとの話し聞きなさいよ!!」
咲夜のマイペースっぷりに、パチュリーはさらに激昂している様子である。
妖夢は、パチュリーがこんなに声を荒げるのを聞くのは初めてであった。
その顔を見たいような、見たくないような……。
「状況はわかりませんが」
咲夜は、あくまで冷静である。声が。
「乱暴に振舞わない限り、そして美鈴が門を通し、お嬢様が了承なさったのであれば、彼女らは当館のお客様でありますわ」
「ぐっ……」
「よく言ったぜ、咲夜!」
「ちょっと私、腰が疲れたんだけど……」
呻くパチュリーに、歓声を上げる魔理沙、そして腰を押さえているらしいアリス。
妖夢は、なんでこんなことになっているのだか、さっぱりわからなかった。
ただ、ここは耐え時なのだということだけはわかった。修行で鍛えたこの腰を、曲げ続けられない道理などあんまりない!
「――その上で、彼女らが何を求めているのかはわかりませんが」
と、咲夜の言葉が続く。
そして。
「私からも、お願い申し上げます」
「……あー」
咲夜の声は、魔理沙と反対側の真横から聞こえ、そして小悪魔の呆けたような声がする。
「どういうつもり……?」
「この三名が、ここまでしているのです。私は、お嬢様にお仕えする者として、お客様を可能な限り御持て成しすべきと心得ております。ですので」
「相手をしろと? この私に……?」
これは、歯軋りの音、だろうか。
パチュリーはいよいよ激怒しているようであった。
考えてみれば、ここまで相手を怒らせて、果たして頼みを聞いてくれるものなのだろうか、と妖夢は不安に思う。
「ごほっ……! あ、あんたたち……げほげほっ!! がほっ!」
「ぱ、パチュリー様っ!」
「ごほごほっ…………はぁ、はぁ、はぁ……」
小悪魔が、興奮のあまり咳込みだしたパチュリーに駆け寄り、何か薬のようなものでも呑ませたのだろうか、少ししてパチュリーの呼吸が落ち着く。
妖夢は、ただひたすらに頭を下げ続けるだけだ。そして魔理沙も、アリスも、咲夜も。
四人で並び、頭を下げ続けるのだ。
そして、とうとう。
「ねぇ、ここに咲夜来てない? ――って、うわっ! 何これ!?」
「れ、レミィ……」
主がやって来た。
◇ ◇ ◇
いかにパチュリーといえども、紅魔館に居候している身である。
加えて、親友でもあるレミリアの一声を無下に扱えるはずもない。
「はぁ? すると、お前たちは便乗して頭下げていただけなの? バカなの? あ、バカか」
「失礼ね……あいたたた」
レミリアの言葉に反論しかけたアリスが、腰を押さえて顔をしかめる。
それを見ていた魔理沙は、にやりと笑いながら言う。
「いやぁ、だけどよかったじゃないか。『淑女的』に問題が解決できて」
今では、皆、頭を上げている。
妖夢もまた、パチュリーに話を聞いてもらえることになり、ホッとしていた。
レミリアが無邪気に言う。
「――で、そもそもの発端。あんたの頼み事って何だったの?」
「あ、それはですね」
――“主たる幽々子様の満足できるような料理方法の書かれた本を、紹介してくれまいか”
「えっ……」
「ちょっと……」
魔理沙とアリスが絶句する。
「そんなことのために……っていうか、そんくらい教えてやれよ、パチュリーも」
「はぁ? なんで幽々子とやらの胃袋のために私が時間を割かなきゃいけないのよ」
「くそっ、とんだ時間の無駄だったぜ!」
「まったくよ、腰が痛いし!」
「……ふ、ふはははは! こりゃ傑作だ!」
レミリアが大笑いする。
それはすぐさま他の連中にも伝わり、辺りは爆笑の渦に包まれた。
無論、パチュリーと妖夢を除いて、である。
その日、妖夢は、斬るだけではなく、頭を下げ続ければ何とかなることもあるのだ、と改めて悟ったのであった。
~完~