分厚い天蓋は陽光とともに季節の空気の一切を遮り、冷たい岸壁は空気を冷却して冬のような鋭い冷気とチラつく粉雪を一年中舞わせる。
例外は灼熱地獄後の周辺だけれども、あちらはあちらで一年中裸で過ごせそうな熱気だけが支配する世界だ。
だから、この地底世界で夏というものを本当に感じ取っていたのはあれただ一匹だけで。
それももう死んでしまった。
◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇
み゛ぃーん、みんみんみん! み゛ぃーん、みんみんみん!
「こいし様! なんですこのやかましいのは!」
私の部屋のドアに熱烈な
耳をぎゅうっと抑えてすっかり憔悴しきった表情なのは、この鳴き声のせいだろうとは思う。
「何って、セミだよ。アブラゼミ。蝉丸って坊主めくりで坊主判定でよかったかしら」
「頭巾を被ってるのは坊主じゃないです。それはそれとしてセミってのはわかりますよ。
なんで地底にセミがいるのかって話なんです!」
「捕まえてきたんだもの。ほら」
指さした部屋の隅には、大きな虫かごが一つ。
中には大きめの樹の枝が立てかけてあって、そこには餌の砂糖水が塗ってある。
耳をつんざく大音声は、間違い無くその虫かごから発せられていた。
「なんでまたそんなものを」
「ほら、夏だし」
お燐は私の返事を聞いてため息を一つ。
ごめんね、いつも気まぐれで迷惑かけちゃって。
まあ無意識だから改めようがないんだけど。諦めて地上の吸血鬼のメイドのようなご奉仕系マゾに目覚めると幸せだと思う。
「……まあ、確かに慣れれば風情があるかも知れませんね」
み゛ぃーん、みんみんみん! み゛ぃーん、みんみんみん!
元気のいい鳴き声に掻き消されそうなお燐のボヤキ。
彼女の安眠を妨げないためにも何かしか防音措置は取らねばならないだろう。
まあそれも
私は部屋を出て行こうとするお燐を呼び止めると、天井にあるダクト口を指さした。
「私の部屋の暖房ダクト、元栓閉めちゃって」
天井のダクト口は旧地獄市街中に張り巡らされた配管の末端で、大本は灼熱地獄につながっている。
弁を開けばいつでも灼熱地獄跡の暖気で温まることが出来る、というわけだ。
「いいんですか、冷えますよ?」
「それがいいのよ。夏は部屋を冷やすものでしょう?」
それはそうだけど夏っぽくは無い気がする、と言うお燐を宥めて、ダクトの元栓を閉めてもらった。
それで、私の部屋は地底の冷たさに支配された。至極あっさりと。
◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇
お姉ちゃんはそれから二日後に部屋を訪ねてきた。
ドアを押し開くと、部屋の寒気にブルリと震え、私に挨拶をしてきた。
「ひさしぶり、こいし。風邪を引いていない?」
「無意識は風邪を引かないって昔から言うでしょ?」
あれ、違ったっけ。
まあ、お姉ちゃんはそんな小粋な私の挨拶を完全にスルーして、虫かごの方へと歩いて行った。
虫かごの中のセミは、死んでいた。
うつろな軽いからだが、虫かごの底でひっくり返っている。
お姉ちゃんはしばらくそれを冷たい目で見つめてから、そのままの温度の視線をこちらに向けてくる。
「セミにこの寒さは毒だというのはわかっていたわよね?」
「そりゃあもう。二日持ったのが驚くくらい」
「何故?」
問われる。何故こんなことをしたのかと。
その問いに答えるために、私は逆に質問を返した。テスト、ゼロ点だね。
「お姉ちゃんは虫の心は読める?」
「……妖怪化していないものは、ちょっと。言語化されていないしほとんど本能で動いていますからね」
だろうねぇ。読むだけの思考が無いんだもの。
「でも、本能という無意識はある。夏になったらおもいっきり鳴いて、結婚して子供作ろうっていうね」
それはよく知られていることだ。だから、セミは大きな声で鳴く。
でも、このセミは、セミたちは皆、どいつもこいつも。
「でもね、セミは本当に、本当に夏に恐怖しているんだよ?」
本能を支配するレベルで、セミは夏を恐れている。
意志ある存在なら絶望に身を捩り金切り声を上げること間違いない本能的な恐怖に突き動かされて、セミは鳴くのだ。
「羽化する夏が来てしまえば、一週間で死んでしまう。何年も何年も生きてきた命が、たったそれだけで。
本能が命じるままに、安らげる母の胎内のようで甘露のような樹液のある地底を引きずり出され、子供を作るために命を残り一週間にまで削られる。
それは、怖くて怖くて仕方がない」
地下でじっとしていれば、ひょっとしたら永遠かもしれないのに。
明るい世界と繁殖という本能的悦楽さえ知らなければ一週間の命に絶望することもないのに。
明るく暑い夏の空に解き放たれてセミは絶望しているのだ。セミの無意識を支配しているのは本能への憎悪と慟哭なのだ。
「だから、セミは夏が怖い。冷たい土がほんの少し暖かくなるだけで気が狂いそうなほどに恐怖する。
だから、とっても、恋しいんだよ? 冷たい地底の身を刺すような温度が」
だから叶えてあげたのだ。
捕まえて、ここまで運んで、冷たい世界に身を晒させた。
ほんの二日で、セミは死んでしまったけれども、その無意識は驚くほど安らいでいたのだ。
怒られる必要はないと思う。むしろ感謝してくれてるはずなのだ。
「……いいでしょう、嘘を言っているようでなし。ただし、今度からは止めておきなさい。
命を繋ぐということは、とてもとても大事で、正しい行いなのだからね。
何より、貴女が風邪を引いてしまっては困るわ」
「そうだね、そうするよ」
私はそう返事を返しながら、虫かごの死骸を見やった。
◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇
この季節のない地底世界で、ただ一匹夏の恐怖を知り、その本能から逃げ出した一つの死骸。
私はそれを地上に持って行って埋めてあげた。
みーんみんみんみんと、恐怖と絶望と憎悪と肉欲に塗れた彼の仲間たちの出す合唱の中、私は死骸を丁寧に埋めてやった。
周りの鳴き声に嫉妬の色が混ざったような気がしたけれど、それは無意識のレベルには有り得ない高等な“思考”だったので、それはきっと気のせいだったに違いない。
み゛ぃーん、みんみんみん! み゛ぃーん、みんみんみん! み゛ぃーん、みんみんみん! み゛ぃーん、みんみんみん! み゛ぃーん、みんみんみん! み゛ぃーん、みんみんみん…………。
●『余命二日の蝉』 這い寄る妖怪氏
かじつ@参加 (2012-11-17 23:30:30)
どぞ。
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:30:33)
よろしくお願いします
Ministery@失格 (2012-11-17 23:30:38)
発想が神
南瓜@参加 (2012-11-17 23:30:46)
これは好きでした
生煮え@参加 (2012-11-17 23:30:49)
見事でした
水無月海月 (2012-11-17 23:30:54)
インデントなしはわざと?
かじつ@参加 (2012-11-17 23:31:12)
地の文はそうなっているねぇ。
南瓜@参加 (2012-11-17 23:31:33)
インデント?
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:31:37)
インデント入れるタグとかあったっけ
Ministery@失格 (2012-11-17 23:32:54)
さあ、あったっけ? まあインデントないのはちょっと気になるね
生煮え@参加 (2012-11-17 23:32:56)
でもセリフ中の改行は一字開けてるという謎仕様
水無月海月 (2012-11-17 23:33:11)
セミってカタカナで書いてあるのは、エレメントとして学術的に捉えてるのか……結構スキ
かじつ@参加 (2012-11-17 23:33:34)
この作品は地の文がわりとしっかり目だから,文頭を一字下げたほうがしっくりはくるかもね。
南瓜@参加 (2012-11-17 23:33:36)
字下げですか
水無月海月 (2012-11-17 23:33:55)
まぁ、あまり横文字文章には詳しくないから……文法的なものはあまり言えない……ごめんなさい
かじつ@参加 (2012-11-17 23:34:22)
中身については,完成度が非常に高いと思う。
水無月海月 (2012-11-17 23:34:31)
単語して【ダクトの元栓】ってのが気になるかなぁ
Ministery@失格 (2012-11-17 23:35:01)
セミはいい判断、情緒が感じられなくて逆にらしい
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:35:02)
あんまり地の文の方は気にしてなかったなあ。カギ括弧はズレがよくわかるから手動で入れたけど
水無月海月 (2012-11-17 23:35:14)
そうですねー 全体としてすっきりサワーしてる
生煮え@参加 (2012-11-17 23:35:26)
こんなの出されたら同じ参加者としてたまりません、というのが正直な
ぴす@参加 (2012-11-17 23:35:35)
セミの感情っていうあれだね、不明なのをもってきたのがいいねぇ
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:35:46)
考えて、と言うより直感的にカタカナにした
水無月海月 (2012-11-17 23:35:47)
ラスト七行ぐらいはもっと丁寧に描写したらよくなるかもかも
Ministery@失格 (2012-11-17 23:35:47)
しかしセミが恐怖しているというくだりがちと説明的だと思った
かじつ@参加 (2012-11-17 23:36:03)
そうねぇ。しかし長さ的にはやむを得ないのかとも。
南瓜@参加 (2012-11-17 23:36:07)
あそこは説明的ですね
生煮え@参加 (2012-11-17 23:36:19)
とりあえずセミを出せば一発で季節感は出る
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:36:19)
ねっとり説明的なのは意図的。
Ministery@失格 (2012-11-17 23:36:27)
そーなのかー
かじつ@参加 (2012-11-17 23:36:28)
どういう意図かな。
すねいく@参加 (2012-11-17 23:36:46)
説明的なのは気にならなかったかな
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:36:49)
根掘り葉掘り説明しないとわからないものであるはず。
南瓜@参加 (2012-11-17 23:36:50)
序盤のキャラクターと比較してやや違和感があるかもしれません
かじつ@参加 (2012-11-17 23:37:01)
キャラクターですか。
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:37:07)
だから怖いものはねっとり説明する
Ministery@失格 (2012-11-17 23:37:29)
理解して欲しがっているということかな?
生煮え@参加 (2012-11-17 23:38:11)
掌編ということもあるからなのか、いつもの這い寄るさんの作風からするとコミカルで砕けていたのが、こいしのキャラとなかなかマッチしてて好感触
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:38:16)
細かいとこグリグリ説明するのって、なんかネバついて気持ち悪い感じしません?
南瓜@参加 (2012-11-17 23:39:00)
虫→本能で動く。本能=無意識って書いてあるのもあって
Ministery@失格 (2012-11-17 23:39:02)
それなら読みやすく改行するべきではなかった、もっと詰めて、わかりにくくするべきだった
南瓜@参加 (2012-11-17 23:39:21)
直後にこいし一人称で説明的なのは違和感があるかも
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:39:34)
あと、実は元ネタというかアイディア元はある
ぴす@参加 (2012-11-17 23:39:45)
ま、虫に感情があるのなら読める
ぴす@参加 (2012-11-17 23:39:57)
無意識を読むっていうのは不自然だからねぇ
Ministery@失格 (2012-11-17 23:40:01)
最後のオチのことかな?
南瓜@参加 (2012-11-17 23:40:12)
さとりにわからせないのはよい演出だと思いました
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:40:17)
いえ、全体的に。
南瓜@参加 (2012-11-17 23:40:24)
わかってしまうとさくっとそこまでになってしまうので
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:40:48)
世にも奇妙な物語で「次の生まれ変わり先を物件として紹介する」って話があって
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:41:01)
その生まれ変わり先がセミ。
生煮え@参加 (2012-11-17 23:41:16)
うーん残念ながら知らない
水無月海月 (2012-11-17 23:41:32)
あったなぁ 来世物件
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:41:35)
まあそっちは「セミの最後の一週間超気持ちイイ」だったんだけど。
Ministery@失格 (2012-11-17 23:41:35)
世にも奇妙な物語はショートショートとしてクオリティ高いからな
かじつ@参加 (2012-11-17 23:42:02)
説明ということ自体が意識的な行いのようにも思えるから,説明部分に違和感が生じるのかな。
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:42:21)
たった一週間の快楽漬けで死ぬのを理解してるのって超怖くね?
Ministery@失格 (2012-11-17 23:42:50)
快楽漬けの度合いによるな
水無月海月 (2012-11-17 23:42:51)
怖いって意識?
かじつ@参加 (2012-11-17 23:43:07)
無意識的な怖さもあるような気はする。
南瓜@参加 (2012-11-17 23:43:11)
作中での無意識の説明と、こいしの行動に違和感があるのですかね
南瓜@参加 (2012-11-17 23:43:12)
>周りの鳴き声に嫉妬の色が混ざったような気がしたけれど、それは無意識のレベルには有り得ない高等な“思考”だったので
南瓜@参加 (2012-11-17 23:43:30)
無意識で動くこいしはここまで考えているのに、という
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:43:41)
恐怖は原初的で本能的だと思います。
生煮え@参加 (2012-11-17 23:43:44)
比較的軽いノリだった前半から転調して説明的になったから、違和感が生じるのかもしれません
水無月海月 (2012-11-17 23:43:51)
生存本能的な怖ささささ
Ministery@失格 (2012-11-17 23:44:34)
説明したいから説明しているのならその背景をもっと仄めかすべきだったし、不気味さを出したいのならわかりやすくするべきではなかったんじゃない?
ぴす@参加 (2012-11-17 23:44:51)
セミに着眼したのはいいですが、感情部分でおかしなところが気になる作品ですが
ぴす@参加 (2012-11-17 23:45:07)
あたいとしては個人的に好きな流れでした
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:45:14)
相手の理解を求めずこっちが理解してることをぽん、ぽんと並べている感じ。
水無月海月 (2012-11-17 23:45:42)
こいしを知ってるか知らないかでだいぶ別れるのかもかも
かじつ@参加 (2012-11-17 23:45:44)
うーん,説明部分はこいし以外の者の「解釈」により進み,こいし本人はクリティカルな部分しか言わない,というのならどうだろう。
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:46:05)
三人称のがよかったかな
Ministery@失格 (2012-11-17 23:46:13)
よかったと思う
かじつ@参加 (2012-11-17 23:46:18)
そんな気はしますかね。
南瓜@参加 (2012-11-17 23:46:28)
私は三人称のほうがと思いますね
かじつ@参加 (2012-11-17 23:46:40)
とはいえ,アイディアとまとめ方は秀逸なものがあると思いました。
かじつ@参加 (2012-11-17 23:46:46)
さて,ひとまずはここまでかな。
南瓜@参加 (2012-11-17 23:46:51)
話はよかったです
生煮え@参加 (2012-11-17 23:47:03)
暖房ダクトみたいなオリ設定をさらりと出してきても違和感なく仕上げてきてるのが上手いですね
Ministery@失格 (2012-11-17 23:47:19)
セミの鳴き声はもっと効果的に使えそうな気はする
水無月海月 (2012-11-17 23:47:24)
暖房ダクト入れるならもっとしっかり寝るべき
Ministery@失格 (2012-11-17 23:47:35)
文区切りとか、セミの鳴き声でよかったんじゃないかな
かじつ@参加 (2012-11-17 23:47:44)
ふむ。
水無月海月 (2012-11-17 23:47:54)
そろそろ次??
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:47:59)
ですかね。
かじつ@参加 (2012-11-17 23:48:00)
はい。では。
這い寄る妖怪@参加 (2012-11-17 23:48:06)
ありがとうございましたー