ぎちぎち、ぎちぎち、ぎちぎち、ぎちぎち。
ある朝、八雲紫がなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。
ぎちぎち、ぎちぎち、ぎちぎち、ぎちぎち。
そして八雲紫はその時点で自分の名をすっかり忘却した。
既存のどんな虫にも当てはまらぬ、黒く、巨大で、悍ましく、美しいその一匹の虫は、黒く頑丈な外羽を展開し、その内側の透明な内羽を震わせ布団から飛び出した。
バリバリと障子を突き破り抜けるような空へと飛び出していく。
空気は底冷えのする冷たさであり、眼下は一面の銀世界であった。八雲紫の複眼の瞳はその光景を捉え、八雲紫の気門はその静謐な空気を取り込む。
そしてその当然の結果として、自分の生存限界を下回る気温に自分の寿命を自覚した。
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「だ、大丈夫貴女?! こんな時期にどうしたのよ!」
全身から奪われていく力を懸命に振り絞り、八雲紫は人里近くの森へと飛翔していった。
ひときわ大きな木のうろの中に飛び込むと、そこはほっとする暖かさに満ちた空間になっていた。
一本の樹木を内側から削りだして作られた椅子、テーブル、ベッド。
そこでくつろぐ“虫の王”、すなわち蛍の妖怪リグル・ナイトバグは慌てた様子でこちらに駆け寄った。
力尽きて床に伏せた八雲紫をリグルは懸命に抱き起こす。
華奢な少女の体を持つリグルが一抱えするほどある巨大な虫である八雲紫は抱き起こすには少しばかり重すぎたが、それでもリグルは全身全霊の力を込めて抱き上げる。
「酷く冷えてる……ねえ、貴女、どうしてこんな時期に?」
わからない、さむい、さむいわ。
八雲紫は顎をギチギチ鳴らす音でそう伝える。
その六本の手足を懸命に摩りながら、リグルは酷く苦しそうな――辛そうな顔をした。
「ん――ベッド、使っていいわ。暖かくすれば、大丈夫よ」
優しく微笑む彼女だったが、その笑顔はどうにも無理をしているように見えた。
清潔なシーツと毛布は心地よい暖かさで、八雲紫はひたすら眠った。
リグルは甲斐甲斐しく樹液と砂糖水を混ぜたものを八雲紫に振舞い、時には共に寝床に潜ってその体を暖めた。
「大丈夫、きっと元気になるからね」
リグルはそう笑顔で励ましてくれた。
三日ほどして、八雲紫がうとうととしていると、リグルの家である木を軽く揺さぶる感触があった。
リグルは木から飛び出して、木を揺らした誰かと話をしたようだ。
リグルは八雲紫がすっかり寝たものと思い込み、起こさぬように小声で話していた。
だが、不思議なことに八雲紫の聴覚神経は、この時だけは酷く過敏だった。
「ごめん、みすちー。しばらく遊べないや。弱ってる子が来てて」
「あら、大丈夫なの?」
「…………多分、出てくる時期を間違えたんだ。あと、二、三日で」
「……あんまり無理しちゃ駄目よ、リグル」
「看取るの、慣れてるから。虫だからね、僕が王様をやっているのは」
その日の夜、いつもの通りにリグルが八雲紫の布団に潜り込んできた。
八雲紫は、わたしはもうすぐしぬのですか? ギチギチ顎を鳴らして聞いた。
「――――ごめん、聞こえた?」
こわいので、なにかはなしてください。わすれるくらいいろいろと。
ギチギチ顎を鳴らして八雲紫がそう言うので、リグルは色んな話をしてやった。
友達の夜雀や氷精や宵闇の話をしてやった。世界が平和であると思うと安らいだ。
虫達の現状について話をしてやった。最近問題になっていることを愚痴ると八雲紫は的確な助言をしたのでリグルは驚いた。
関係のない世間話もたくさん聞いた。沢山の小さな事件があることを知った。
そう言う話をしていると、八雲紫の意識はふと途切れた。
眠ったのとそう変わりない断絶だったが、目覚めはもうなかった。
八雲紫は知る由もなかったが、リグルは八雲紫を埋めてやった。少しばかり泣いて、少しばかり消耗していた。
そしてある朝、八雲紫がそんな気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹のか弱い子犬に変わっているのを発見した。
人里で教師に拾われ一週間で八雲紫は死ぬと、そんな夢から目覚めて一人の赤子に変わっているのを発見し、
永遠亭に拾われ三日で病死すると、そんな夢から醒めて一つの人魂になっているのを発見した。
人魂が四日ほどで冥界から消滅すると、そんな夢から起きて――――。
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「お早う、藍」
「遅よう御座います、紫様。なんだか年々冬眠が長くなってませんか。それで、冬眠中の出来事ですが」
「大体把握してるわ」
「ハァ、そんなふうに有能だから寝坊助を叱れないんですよ。いつもどうやって寝てる間のことを?」
「死にゆく者には皆優しく、口が軽くなるものよ」
●『変身』 這い寄る妖怪氏
かじつ (2013-02-04 00:05:34)
どうぞ。
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:05:42)
よろしくお願いしまーす
白麦 (2013-02-04 00:05:45)
ザムザかよ!
K.M (2013-02-04 00:05:50)
お願いします
矢 (2013-02-04 00:05:50)
これは脱帽でした
かぼちゃ (2013-02-04 00:05:50)
グレゴール・
かぼちゃ (2013-02-04 00:05:54)
ゆかりん
白麦 (2013-02-04 00:05:55)
うん、最初のつっこみだった
K.M (2013-02-04 00:06:01)
カフカですよね。
白麦 (2013-02-04 00:06:09)
カフカか
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:06:13)
カフカです。
矢 (2013-02-04 00:06:13)
ザムザと紫のイメージがなぜかしっくり重なる不思議さもなんか凄い(小波
百円玉 (2013-02-04 00:06:18)
オチがすごいきれい
生煮え(参加 (2013-02-04 00:06:25)
這い寄るさんの作品が素晴らしくて驚愕するのが最近のトレのデフォルトになってる……
矢 (2013-02-04 00:06:48)
『変身』っぽいの冒頭で、お?と思わせて、え、なにループ物?と展開して、すっきり納得いくところに落とされました
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:06:54)
なんて言うか、実体験に近い。
生煮え(参加 (2013-02-04 00:07:06)
実体験!?
かじつ (2013-02-04 00:07:18)
オチはこれでいいとして,年々冬眠が長くなっているというのには何か含みを持たせているのかな。
K.M (2013-02-04 00:07:21)
発想の順番は『リグル→蟲→一匹の毒虫』でしょうか?
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:07:39)
飼ってる犬がね、極度の貧血で後二日って言われてつきっきりで。
生煮え(参加 (2013-02-04 00:07:51)
泣ける
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:07:53)
今元気に大飯かっくらってるけど。
矢 (2013-02-04 00:07:58)
うおい
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:08:17)
消耗するんですよ、死んできそうな生き物見てるのって。
かぼちゃ (2013-02-04 00:08:32)
どっちが夢なんだろう
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:08:37)
発想はそうです<リグルから
K.M (2013-02-04 00:08:38)
あー……なるほど
かぼちゃ (2013-02-04 00:08:46)
ニュアンスかなあと推測してました。夢が長くなる
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:09:12)
冬眠が長くなってるのは多分単純に勢力増えてるからじゃないですかね、多分。
かじつ (2013-02-04 00:09:19)
シンプルな生き物から複雑な生き物へと移行するから長くなっているだけなのか
かじつ (2013-02-04 00:09:34)
紫自身に何かのエラーも生じているのか
かじつ (2013-02-04 00:09:42)
と読んでいて思ったので。
百円玉 (2013-02-04 00:09:43)
紫の性質の表現がすごく腑に落ちて、
生煮え(参加 (2013-02-04 00:09:45)
オチがとても綺麗に纏まってますが、このオチをどのあたりで思いついたのかは聞いておきたいです
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:10:16)
最初の一文を元ネタ紹介してるところからコピペして改変した辺り。
生煮え(参加 (2013-02-04 00:10:16)
最初からオチまで思いついていたのか、書きながらなのか
百円玉 (2013-02-04 00:10:26)
誰にも気づかれていないというのがまた、孤独さもあって
生煮え(参加 (2013-02-04 00:10:45)
ほぼ最初かー
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:10:51)
初っ端オチまで思いつかないと書けませぬ。
矢 (2013-02-04 00:11:03)
なんとなく共感
K.M (2013-02-04 00:11:08)
記憶と意識(計算能力)は残ってて「ん?」と思ったけれども
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:11:32)
そして気づく。ナチュラルにリグルが「僕」だった。
生煮え(参加 (2013-02-04 00:11:41)
そこはww
かじつ (2013-02-04 00:12:01)
なぜ僕なのかとは思ったけれど何か触れてはいけない雰囲気なのかと……
K.M (2013-02-04 00:12:07)
「自分の名をすっかり忘却した」とあり、逆に言うと名前以外はそのままだったのかと変なところでカウンターブロー貰った気分です
かじつ (2013-02-04 00:12:09)
実体験的に。
かぼちゃ (2013-02-04 00:12:14)
夢だとか非現実だとかといいたいから僕?
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:12:43)
いえ、全然普通に書いたら僕だった。大妖精のソード・ワールドのせい
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:13:06)
俺は悪くねえ!
生煮え(参加 (2013-02-04 00:13:14)
いやいやww
K.M (2013-02-04 00:13:38)
二次創作あれこれの影響力ww
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:13:55)
名前が消えるって自我の喪失に等しいから他のことも忘れてるかもしれない<忘却した
かぼちゃ (2013-02-04 00:14:05)
助言は少し気になるかもしれません
かぼちゃ (2013-02-04 00:14:43)
どういうレベルで知識があって、行動できてが掴みにくい感はあります
かぼちゃ (2013-02-04 00:15:08)
助言できる知識あるなら、生存限界の気温でも火なりで暖を取るのでは? のように
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:15:42)
そんなふうに思考回路が繋がったら八雲紫の目的は達せられないじゃないですか。
生煮え(参加 (2013-02-04 00:16:05)
思考が断片的なんでしょうか
K.M (2013-02-04 00:16:31)
最後のセリフからするに、わざと死にかけて情報得に行ったのかな、と
かじつ (2013-02-04 00:16:37)
ちょっと気になったのだけれども,ラストの一行からすると自覚的に思える。
かじつ (2013-02-04 00:16:53)
すると自身の名を忘却下のくだりはいるのかどうかと。
かぼちゃ (2013-02-04 00:17:00)
自分の記憶を消して情報を得る
百円玉 (2013-02-04 00:17:03)
潜在的に目的は忘れないように自らをプログラミングし直したのかな
かぼちゃ (2013-02-04 00:17:04)
デビルマン方式
生煮え(参加 (2013-02-04 00:17:13)
そのあたりはあれかなと納得できたんですけど
生煮え(参加 (2013-02-04 00:17:29)
ほら、夢の中だと必死だけど
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:17:37)
変に自覚してたら行動もおかしくなりますし、予めプログラミングした方が面倒がないと思う。
生煮え(参加 (2013-02-04 00:17:52)
目が覚めると、ああ夢だねと冷静になれる的な
かじつ (2013-02-04 00:18:02)
夢の中では忘れていて,起きたらわかっていると。
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:18:13)
夢ってそういうものですよね
百円玉 (2013-02-04 00:18:25)
SFっぽい
かじつ (2013-02-04 00:18:32)
そろそろかな。
K.M (2013-02-04 00:18:49)
ですかね
這い寄る妖怪(参加) (2013-02-04 00:18:57)
ありがとうございましたー
かじつ (2013-02-04 00:19:01)
では次。