キャリア・オイルには、きめの細やかなアプリコット・カーネル・オイルを。
ラベンダーとローズマリーを混合した芳香に、微かにペパーミントを忍ばせるのが、忠誠を捧げる御主人様の、最近のお気に入り。
〝だらり〟と、脱力しきった八雲紫の躰を、豪奢な天蓋つきの寝台が、埋まってしまいそうな程の柔らかさをもって抱きとめる。
沁み一つない純白のシーツに、〝ふわり〟と、朝露に濡れる蜘蛛の糸の軽やかさで広がるのは、黄金を梳ったかのように見事な蜂蜜色の長い髪だ。
緩やかに波打つそれは、極上のミルクのような滑らかさを持った肌の上を煌きながら滑り落ち、一糸纏わぬ裸身を、天女の羽衣のように包み隠している。
誠実な職人仕事の一品であると見てとれる、骨董品の傘つき灯火の燐光が、息を呑むほどに美しい、整ったプロポーションを縁取っている。
豹のようにしなやかな筋繊維を、薄く、必要最低限の量で覆い隠す脂肪の層。
機能性においては肉体の黄金比を形成するであろう造りをしているくせに、自らの体重に押し潰された豊かな乳房も、重力に逆らい張り詰めた尻の肉も、艶かしい色香をもって目にした者の心を官能という炎で炙るだろう。
それを云うならば。
可憐な百合の花の茎めいて細い首から流れる、抱き締めたら壊れてしまいそうな程に繊細な肩の曲線。
首元に密やかに浮き上がる鎖骨は、巣立ちの時を迎えた雛鳥が、天へと舞い上がるために広げた、いまだ頼りない翼のようだ。
肉体の内部、臓器の配列から、それらを支える骨の形状に至るまで、一人の偉大なる芸術家が、一切の妥協なく図面を引いたとしか思えぬ程に完成された女の美貌が、そこにはあった。
瑞々しい少女の無垢と、盛りを迎えた女の妖艶さとが掛け合わされた時、そこに描き出される姿は、ただ魔性の一言をもって、人々の前に感動と共に現れるだろう。
或いは、いざその姿を目の当たりにした者は、痴呆のごとくに呆けるか、原始的な本能と衝動に突き動かされる、浅ましい獣へと成り果ててしまうに違いない。
八雲藍は、確信を持って、自らの前に無防備な姿を曝け出している主を見つめた。
呼吸の度に、微かに上下する躰さえ、艶やかに蜜を滴らせた毒花めいている。
ほのかに立ち昇る甘やかな体臭は、手にした特性のフレグランス・オイルの芳香さえ押しのけて、藍の心を、嵐の海のように掻き乱した。
紫の傍に侍る、忠実なる式という役割や立場の全てを投げ打って、荒れ狂う波に飲み込まれる小船のように、自らを律する事を諦めてしまえば、少しは楽になれるのだろうか。
……そんな益体もない想いが、麻酔されたように緩慢な思考を過ぎっていく。
微かな逡巡の後に、後ろ髪を引かれるような未練と共に、藍は、その邪な想いを振り払った。
式たる彼女に許され、求められているのは、ただ主の命に従うことのみ。
主の欲するところを違えれば、その報いは、最悪の形で己の身へと返るだろう。
――否。
藍の主は、それほどに狭量な器では無い。
忠実なる式の裏切りにも、葛藤の末に我を失った求めにも、幼子の戯れであるかのように、全てを受け止めてくれるに違いない。
優しく頭を撫でながら、悪戯に微笑みながら、そして残酷に弄びながら、藍の謀反を、〝するり〟とかわしてしまうのだ。
それが、余りにも明確な未来として予見できてしまうが故に、藍は、僅かに踏み外しただけでも奈落へと堕ちてしまいそうな程の絶壁の淵に佇みながらも、寸前のところで己を保っていられた。
「はぁ……今日も、疲れたわ……」
紫は、藍の葛藤など素知らぬ様子で――或いは、全てを知り得ながらも捨て置いているのか――溜息を吐いて見せた。
選ばれた者だけにしか立ち入る事を許されない、八雲紫の寝室。
結界めいて閉ざされた密室の中で、惜しみなく裸身を晒す紫と共にあっては、その唇が紡ぎ出した音節の一つをとっても媚薬のようだ。
凝る大気は、〝とろり〟とした粘性さえ帯びて、真っ白なシーツが立てる衣擦れの音を、心地良い余韻と共に空間に留め置く。
藍の鼓動は、早鐘のように急き立てられているというのに、時間は、拷問のような緩慢さで流れていく。
「それじゃあ、藍……今日も、お願いね。私を、解き解して頂戴」
紫は、どこか気だるそうに、藍へと命令を下した。
寝台の横に佇む藍に、一瞥さえ与えず、全てを委ね切った信頼の表情と共に瞳を閉ざす。
細く、長く、形の良い睫毛が、閉ざされた目蓋に淡く揺れる影を落とした。
「はい。……失礼いたします、紫様」
藍は、努めて冷静な声で、自らの掌に手製のフレグランス・オイルを垂らした。
伸びの良いオイルにぬらつく掌を、まるで壊れ物を扱うかのように、主の裸体へと伸ばしては、その肌の上で滑らせる。
紫の背中を、藍の手が撫でるように滑る度に、伸ばされたオイルが、てらつく軌跡を刻んでいく。
僅かな傷も、汚れさえも存在しない紫の肌を、なお一層輝かせるように細心の注意を払いながら、藍は、キャリア・オイルに希釈されたエッセンシャル・オイルの成分を擦り込んでいく。
疲れたと言葉にだしておきながら、その実、生まれたての赤子のように柔らかで温もりのある紫の躰を、玉のような皮膚の下で細く束ねられた筋繊維を、〝やわやわ〟と揉み解していく。
「んっ……良いわ……そこ、気持ち良い……」
〝ほう〟と、蕩けたような吐息が紫の口元から零れ落ちる。
藍の双手は、紫の首筋から肩へ、真っ白いカンバスのような背を辿り、たおやかな腰へと至る。
さらに下り、小高い二つの丘のような尻の柔肉に触れる寸前で、ふと思い留まった。
しかし、その躊躇も一瞬のこと。
主の疲労を解き解すという大義名分の元に、藍の腕は何かに衝き動かされるように滑り降りた。
破裂する寸前までに、膨らまされた水風船のようだ。
力を込めれば、その通りに形を返る程に柔らかな癖に、確かな弾力をもって、元の形へと返らんとする。
一晩中でも、揉みしだいて飽きぬ感触であるに違いない。