ある夏の夕暮れのことです。
私は人里への薬売りを終えて、永遠亭への帰り道を歩いていました。
ついでに、と師匠から頼まれた野菜を買い込んだ、行きよりも重い荷物を背負って。
人里から迷いの竹林までの間には、妖怪の山から流れている川があり、当然ながら橋が架かっています。橋の傍には一本の柳の木が立っていて、時折ゆうら、ゆうらとその身を揺らすのです。
私は橋に差し掛かると、背負っていた荷物を降ろしました。柳の木陰が私を出迎えました。丁度このあたりが、永遠亭との中間地点なのです。どっと疲れが噴き出た私は、だらしなくも地面に座り込み、荷物の中から水筒を引っ張り出しました。
蓋を片手にごく、ごくと喉を潤し、やれやれまた一頑張りか、と溜息を吐きます。夕日が水面をきらきらと照らしていました。川のせせらぎに耳を奪われ、思いきり水浴びが出来ればな、とさえ思いました。
だからでしょうか。私がそれを見つけてしまったのは。
川の中を、白い魚が泳いでいました。
――真っ白な魚。
私は最初、そう思ったのです。
水に流されるままに、身を任せ泳ぐ魚。
それがあまりにも自然にそこにあったので、私はつい手を伸ばしてしまいました。
川の流れに手を差し込むと、その魚はただ流されるまま、私の手の内に入ってしまったのです。
いえ、それは魚ではありませんでした。真っ白な、薄い、滑らかな、
それは白い紙だったのです。
その紙は奇妙な形をしていました。
完全な円形をした頭部と、四肢を模したような四角い胴体部分。
まるで人間のような形。
川を流れる理由など、全くありそうにない異物です。
……私はなんだか気味が悪くなって、その紙を放り投げました。
紙はべしゃりと音を立てると、途端に土に塗れてその白さを失いました。
ぐったりと動かない溺れた人間のような姿。
そんな自分の思い付きに、ぞっと身を震わせます。
とにかくここを離れよう。
私は荷物を背負いなおすと、一路永遠亭を目指したのです。
◇
その日の夜のことでした。
私はてゐに、こんな話を聞かされたのです。
「あんた、厄って信じる?」
月の良く見える夜でした。私たちは縁側に二人で座って、うちわを仰いで涼を取りながら、寝苦しい夜をやり過ごそうとしていたのです。
「厄って……運がいいとか悪いとか、そういうやつのことじゃないの」
てゐは呆れたように息を吐いて、視線を庭に向けました。
芝生が月の明かりを受けて、艶めかしく緑色に光っていました。
「違うよ。毒みたいなものさ。最近人里で流行っている噂でね。
永遠亭と人里の間に川があるだろう? ……あそこには、妖怪の山から厄が流れてくるのさ」
「だから、その厄ってのはなんなの、って聞いてるんだけれど?」
「さてね。私にもよくわかってないんだ」
てゐはそう言って、声を潜めました。
「――だけれど、分かっていることがある」
雲が満月を隠して、途端に庭は影に覆われました。
「ねえ鈴仙、もしあの川で白い紙をみつけても、絶対に触っちゃいけないよ」
私は何も言えないでいました。
私の頭の中には、ただ、あの土に塗れた紙の姿が、地面に伏した死体のような姿だけがあったのです。
「どうしたの、鈴仙。顔色が悪いけど」
その声に、なんでもないよ、と答えます。
もう遅いよ、という言葉は、喉元まで出かかりました。
「てゐ、ちょっと聞いてもいい?」
「うん? 何さ」
「その、絶対に触っちゃいけないってのは、なんで?」
私の言葉に、てゐは困ったように笑うと、こう言葉を返しました。
「――厄ってのはさ、まあ言うなれば病原菌みたいなものなのさ。何かきっかけがあれば相手に飛び移って、その相手に悪さをする。菌を持っていない人間がいないのと同じで、厄も誰だってある程度持ってるの」
「それで?」
「集まりすぎると風邪を引く。そうならないように、適度に消毒しないといけない。だから、その白い紙ってのは消毒用紙なんだってさ。厄を一か所に固めて捨てる」
「捨てる……」
「なんでも、回収している神様がいるんだとか。物好きだよねえ」
てゐはそう言ってくつくつ笑い、もうそろそろ寝よう、と言いました。
縁側の障子を閉じて、二つ並んだ布団に入り、虫の声だけが聴こえる部屋で、私は眼を閉じます。
「ああそうそう、言い忘れてた。なんで触っちゃいけないか」
てゐの声が、小さく寝室に響きました。
「――その神様が、拾った奴の所に直接回収に来るからだってさ」
言い終わるや否や、縁側がぎし、と音をたてました。